— FORUM-ICU、あるいは絶対の<自由> —
大岡 玲 先生
芥川賞・三島賞作家
東京経済大学教授
東京外国語大学ロマンス系言語学科修士課程修了。 89年に「黄昏のストーム・シーディング」で第2回三島由紀夫賞、 90年に「表層生活」で第102回芥川賞を受賞。以来、本格的に作家活動に入る。 その他の著書に「ヒ・ノ・マ・ル」「森の人」「ブラック・マジック」「永遠の夏休み ひかりと本と風と」など。 食や美術への造詣も深く、NHK「日曜美術館」の司会や、食のエッセイや釣りエッセイの執筆なども手掛けるほか、 イタリア語を中心とした翻訳本も執筆するなど多彩な活動を展開。ご長女・ご長男のお二人がともに当塾で学び、ICU に合格。
古典落語の名作に、先代の桂文楽が得意にしていた「明烏」という演目がある。遊びなれた商家の主人に、「堅餅の焼きざまし」みたいな息子をちょっとやわらかくしてくれ、と頼まれた遊び人ふたりが、その若旦那を連れて遊郭に繰り込むという、いわゆる廓話(くるわばなし)なのだが、そのまくら、すなわち話の導入部分が、ことのほか気に入っている。
噺家によっていくつか違ったバージョンがあるのだが、ふたりの遊び人が、くだんのウブな若旦那を待っているシーンで、たしかこんな会話を交わす。
「親なんてものはつまらねえな。堅きゃあ堅いで心配だし、やわらかすぎれば苦労だし・・・・・。なあ、おめえも、子供なんかできた日には、大変だぜ」と一方が言うと、もうひとりがこう返すのだ。
「へへ、だからさ、おれは子供ができたら子供を親にしちまう」
たしか十五、六の頃、寄席でこの噺を聞いた時、このどうにもおバカなやりとりが、どうしてか胸にずんとこたえた。日頃、「子を持って知る親の恩」といった類いの呪文をしじゅう母親から投げかけられ、いやはや、そんなに子供を育てることが苦労だったり恩の貸し借りみたいなことであったりするなら、子育てなどぜひとも御免こうむりたいものだ、と心ひそかに思っていたせいだろう。
そんな不埒な考えが祟ったのか、大学受験ではずいぶんすべったり転んだりして、二年間を予備校で暮らし、はからずも親不孝の上塗りをした。その後も、どうにかこうにか大学は出たものの、正業につく気など毛頭ない。フリーターとさして変わらない文筆業という不安定な「職業」に足を踏み入れ、二十年以上ドタバタあがいて過ごしてきたのである。
ここ数年は、思いがけず大学に職を得たおかげで、月ごとに俸給がいただけるありがたい境涯にいたったが、それで前記のごとき性根があらたまったかといえばさにあらず。老耄(ろうもう)の気配が忍び寄ってきたからかえってそうなのかもしれないが、相変わらず「いつまでも子供のままでいたい」シンドローム。順調に『明烏』の遊び人のひそみにならう暮らしを続けている。
このような「父親」にめぐりあってしまった子供というのは、したがって、まことに気の毒である。配偶者については、そんな男を選んでしまった時点で本人にも責任が生じているのだから、同情するにはあたらないが、なんの因果か子供として生まれてしまった者は、理不尽にさまざまな負担を強いられることになる。遺伝云々といった生物的側面はとりあえずおくとしても、成長する過程で適切な教育的配慮を親からもらえる確率がかなり低くなるのはあきらかだ。
実際、わが家に生まれて、娘と息子は大変だったの思う。いや、もう、なんとも申し訳ない。なにしろ、文部科学省が教育を所管することへの不信感や日本の公教育・学校への批判・嘲笑といった事柄を、見境なく口走る父親が家庭にいるのである。学校を尊いという価値観が育つはずはなく、そうかといって父親は「なんでも率直に、たとえ相手が子供であっても話し合う」などということをモットーにしている「子供」である。かつ、子供が調子が悪いのを押して学校に行こうなどとしようものなら、あらゆる甘言を弄して休ませたりする(これは、母親も)のだ。
これでは、学校に出かけていっても、学校側が要求する事柄や価値観にすんなり適応できるはずもない。そうかといって親、とりわけ私が彼らに押しつけようとしたのは、特定の価値観というより、価値観そのものの相対化というようなことであって、おおげさに格好をつけるなら、科学における反証可能性というようなものを気取っていたのである。まったく迷惑千万な父親というほかない。
その結果、わが娘も息子も、納得できないことは相手が教師であっても決してわかったふりをしない頑固者になると同時に、よって立つ価値観の基盤がある種の相対主義なのだから、妙に自信を欠いたフニャフニャの学習態度を貫かざるをえないというイバラの道を歩く破目になったのである。
しかし、世の中というのはほんとうにありがたいもので、そういう気の毒な子供にも「時の氏神」が出現してくれる場合があって、わが子たちもぎりぎりのところでそういう人たちに救われてきた。娘の場合は、たとえば、小学校四年生で出会ったブラスバンドを指導するY先生。彼が指導するブラスバンドは東京都でも屈指の実力を誇るバンドで、そこでクラリネットを吹くようになって以来、娘は実にくっきりとした人格を持つようになっていった。
息子の場合は、中学受験のために(というより、実のところ不得意教科の補習みたいなものだったのだが)通った塾で教わった社会科のT先生。彼のおかげで、息子はいくぶんなりと学ぶ楽しさに目覚め、やがて入学した中学では、実に気のいい友人たちに囲まれて充実した学園生活を送った。
だが、しかし、こうした氏神さまたちを引き寄せたのは、ありがたい偶然と子供たちの力、というか彼らの「もがき」と「声なき叫び」のようなものが合体したなにかであって、もちろん、私がなにか積極的に手を下したわけではない。うしろめたく感じつつ、手をこまねいて見ていただけ、なのである。・・・・・・という風に、気分はどうも卑屈な方向に進みがちになってしまうのだが、こんな父親でも、娘に対してだけは、たった一度「時の氏神」を呼び寄せたことがある。
高校二年になった頃、英語が今ひとつ伸び悩んでいるのでどうしようか、とめずらしく頼りない父親に娘が相談してきた。私は、なるほど、それじゃあ、英語圏への留学を目指す学生さんたちが通う予備校の夏季講習があるから、それを受講してみたら、と浅知恵をふりしぼって答えた。娘は素直にその講習を受け、結果、親しい友人などもできて、英語に対する障壁感が薄らいだようだった。
それが導入になったのだろう(いや、もしかしたらICU祭で見た派手なサンバのせいか)、高校三年になる時、ぜひICUに行きたいと彼女は言いだした。私も子供時代から近所に住んでいてかの大学の敷地は遊び場だったし、かねてその独特の教育理念には尊敬を抱いてきた。しかし、英語に多少親しむようになったとはいえ、やはり娘の学力では少々、いや、かなり高望みに思える。
さてどうしたものかとひとしきり考え、さして冴えたアイデアともいえなかったが、まずは英語の現在の能力を測る意味でTOEFLを受験してみたらどうだろう、と提案してみた。そして、提案だけというのもさすがに無責任だと思い、まずはTOEFL用の参考書を探しに神保町までおもむいたのである。そして、三省堂の英語参考書のコーナーで、私は氏神に遭遇したのだった。
私がその昔受験生だった時分は、非英語圏に居住する人々の英語能力を測る世界レベルのテストはTOEFLしかなかったのだが、今やTOEICが大勢力となっているせいで、参考書コーナーもTOEIC物の洪水である。そうした状況に気息奄々となっている(というのは言いすぎかもしれないが)数少ないTOEFL用参考書をいくつか手にとってめくっている私の視線が、ある本(『TOEFLテスト190点完全攻略リスニング』というタイトルだった)の前書きでハッととまった。
そこには、こうあった。「『習うより慣れろ!』。多くの学校や予備校では、そんなあいまいな、講師の逃げともとれるような、リスニング指導がいまだに少なくないようですが、それはまちがいです。」「リスニング・テストに必要なのは決してただの『慣れ』ではありません。必要なのは、あくまでも『知識』と『技術』です。『耳』でなく『頭』で聞く、『慣れるより習う』、それがリスニング・テストの絶対条件です。」
おおっ、と一瞬にしてあふれでる共感に、私は一瞬くらりとめまいがしたほどだった。この文章が発するがっちり骨太な、ほとんど反時代的といっていいくらいの正統的学問性が、参考書なんてみんな似たようなもんだなあ、という私の軽侮にも似た気持ちを痛撃した。参考書に私たちが抱く通念とは、いわゆる成功への早道を授けてくれる本、というほどのものだろう。実際、私にめまいをおこさせた当の参考書にも、この本で勉強すればきっちり実力がつきます、という謳い文句はちゃんと書かれている。
しかし、前書きのみならず、どの章の文言にも、そのはしばしに「学びに近道なし。理性による探求心なしに漫然と英語の訓練をしても、実用性という言葉に威を借りた軽薄に接近できるのみ」という姿勢が刻印されている。そう感じたのである。いや、それはお前の思いこみに過ぎないと一笑に付されてしまうかもしれないが、その時私は著者のその姿勢に深く感銘を受けたのである。精神的同志、というと、なにやら自分のこともひっくるめて褒めるような気味合いになっておもはゆいのだが、その時私は、たしかにその参考書の著者にきわめて強い連帯感をおぼえたのだった。
著者のデータを確認すると、「FORUMーICU主宰 松谷偉弘」と記されていた。FORUMーICUという名称は、どう考えてもICU受験に特化した塾もしくは予備校であるだろう。ICUに入りたいと思っている娘にとっては、またとない学舎(まなびや)ではないか。そして、そのFORUMーICUの所在地は、なんと当時私の家があった吉祥寺の隣の三鷹、私の生まれ育った町だったのである。
興奮しつつ家に戻ると、娘に了解を取るのももどかしく、私は早速FORUMーICUに電話をかけた。親が直接いきなり電話での問い合わせをすることはあまりないらしく、主宰である松谷先生はいくぶんとまどっていらしたようだったが、こころよく娘の体験授業参加を認めてくださった。
それからというもの、私が見つけたこの「時の氏神」大社=FORUMーICUに、娘は心酔して通うことになった。さすがに周囲の受講生のレベルは高く、実力差のある彼女は講義についていくのも四苦八苦、という状態がずいぶん続いたが、松谷塾のもたらす効果は、家で彼女が授業の内容を語る時の目の輝きを見れば一目瞭然だった。単に目の輝きのみではない。学問をするためのまことにオーセンティックな技術を、今自分はFORUMーICUという場で修得しようとしているのだ、という喜びが、言葉による理屈にならなくとも、娘の内部に確実に定着していく様子がしっかり見てとれたのである。
夕べの食卓などで、それとなく娘から聞きだす授業内容は、ああ、私もそういう教えられ方をされたかった、と羨望がおきる態(てい)のものであって、いわゆる予備校的なものとはまったく異なったゼミナール形式、それも昨今の大学でよく行われているような気の抜けた形だけのものとは大違いの、気迫のこもったものであるのが感じとれた。
少々突飛な言い方をするなら、松谷塾では、ICUに入る前からICUのゼミを、それもとびきりのゼミをやっているのだ。ICUにおけるトップクラスのゼミと同様の、学問的にも卓越した方法論で英語を学んでいるのである。すなわち、松谷塾で学んでいるということは、ICUで学んでいることなのだから、受講生たちはすでにICUに入学しているわけであって、入試はいわば期末試験のようなものなのである。という風に、いくぶんマジカル(そうそう、松谷先生は、マジックの名手でもある)な理屈を口走りたくなるような、そんな実相が伝わってきたのだった。
春季講習から正規の授業へと歩を進めながら、娘は学びにおける誠実というものと確実に向き合い、それと格闘することで成長を遂げようとしていた。そして、秋に実施されたA・O入試にこそ不合格だったが、驚いたことに翌年二月の一般入試に合格してしまったのである。いや、「してしまった」などと口走ると、粉骨のご助力をくださった松谷先生に失礼であるのは百も承知であるのだが、私も妻も、そして娘自身も、一年浪人しての再挑戦というのを既定事実であるかのように受け入れていたので、ほんとうにビックリ仰天したのである。まことに、松谷大明神さまのおかげ、というほかない。
ICU入学後も、娘は毎週土曜日の講義、そして夏・冬・春の講習で、コピー取りや教材整理のお手伝い、すなわちアルバイトの名を借りてのFORUMーICU での貴重な時間を過ごさせていただいた。ここにもまた、FORUMーICU独特の、一般的予備校とはまったく異なった性格が認められるように思う。私は二年間を御茶ノ水にある某予備校で過ごしたが、大学入学後にそこに足を踏み入れようとはまったく考えなかった。割の良いアルバイトがあったりしたら、あるいは古巣に舞い戻っていたかもしれないが、それはあくまで金銭上の必要からであって、知的な喜びを得るためではなかったはずだ。
しかし、娘が古巣・松谷塾に欣喜雀躍(きんきじゃくやく)出かけたのは、まちがいなく大学での講義や経験に勝るとも劣らない知的刺激がそこにあることを承知していたからなのである。大学でも、たまに卒業生がゼミにひょっこり顔を出すことがあるが、その大方は近所までやってきたので懐かしくなり、という挨拶としての訪問だ。そういう点にも、松谷塾のすぐれた私塾性と人格性が見受けられるように思う。
松谷大明神との邂逅から、早いものでもう七年。娘はICUを卒業し、別の大学の修士課程に進んで、現在は格闘していた修士論文をようやく仕上げたようである。製本された、それなりに分量のある論文を眺めると、FORUMーICUで受けた学問的訓練が土台になければ、娘がこうしたものをまがりなりにも仕上げるような力を持たなかったはずだ、という感慨にうたれる。
まあ、子供を親にしてしまおう、などと考える父親を持ってしまった彼女の不幸は、むしろ松谷塾に通うことによって完成への一歩を踏み出したのかもしれず、その点はお気の毒とご挨拶申し上げるほかない。私はというと、さまざまだらしない部分を娘にやさしく矯正されつつ、子供を親にするもくろみの成功を楽しませてもらっている。
そんな大恩ある松谷先生と、やはり娘がお世話になった城座先生を拙宅にお招きする機会に恵まれたのは、娘がICUを卒業した春のことだった。入学前の一年とそのあとの四年のあいだ、お世話になりっぱなしだったにもかかわらず、私は怠惰を決めこんできちんとした御礼を申し上げていなかったのである。本来ならば、しかるべき席などを設けてお招きすべきだったのだが、おふた方はこころよくわが陋屋におでましくださった。そして、その日は娘のみならず、私自身にとっても記念すべき一夕となったのだった。
松谷・城座両先生の人間的魅力についてここで言葉を費やすと、いささか多幸症的情動失禁のような形容過多になるので控えておくが、かつて三省堂で私を襲った精神の連帯感が一段と強く感じられ、深い幸福感を味わうことができた。松谷先生が語る、たとえば、中世から近代にかけてヨーロッパで猛威をふるった異端審問についての知見に、うっとり聞きほれる快楽というものは、これはまさしく学びの愉悦そのものといってよかった。これでは、受講生が慕うのはあたりまえだ。
しかも、松谷先生の知のありようというのは、いうまでもなく知識の集積というようなものではないことが即座に感知できる。FORUMーICUのモットー「自由よりもっと自由な自由を求めて・・・」という姿勢を体現しているすぐれた知の探求者が、晴朗に目の前にいるうれしさで、私はついつい浮かれてむやみにおふたりにアルコールをすすめ、娘と妻にたしなめられてしまった。
「自由よりもっと自由な自由を求める」という言葉の意味は深い。FORUMーICUが大学受験の予備校であるという点に話を寄り添わせるなら、中世ヨーロッパで生まれた大学の祖型が、都市の自由によって生まれた自由な知識人たちの知的ネットワークにおける結節点、人と人が出会う場所として中世の終わり頃まで機能していたこと想起するとわかりやすいだろう。教会勢力がその大きな後ろだてになっているとはいえ、自由七科、つまり現在いうところのリベラル・アーツの原型はすでにできあがり、都市間を移動しつつイスラム圏の知(それは、古代ギリシアの知でもあった)をも貪欲に摂取しようとする知識人たちにとって、大学はかけがえのない砦だった。かのルネサンスを用意したものも、こうした自由な大学だったといっていい。
しかし、やがて中世末期になって硬直化した、つまり自由を失った大学は、印刷術の出現による新しい知の伝達方法に席を譲るように、ひとたびは衰退した。デカルト、パスカル、スピノザ、ライプニッツといった近代知の巨人たちは、大学を出た場合でも、生業として大学教授であることを選ばなかった。そこには、彼らが求める知の自由がなかったからだろうし、人間の自由にこだわり、フランス大革命の理論的支柱ともなったルソーは、ほとんど完全な独学者だった。
一度死んだ大学が、国民国家の成立とナショナリズムによってよみがえったのが十九世紀。わが国の大学の創成もまた、そうした近代国家主義の要請にもとづくものだったのは、明らかである。そして、二十一世紀を迎えた今、国民国家の枠組みがさまざまな形でゆれうごく中で、大学という存在もふたたび危機に直面している。それはおそらく、今の大学がグローバリズムやらなにやらといったかけ声に惑わされ、そうした風潮に適応できる人材を養成すべきだ、という気分にひたされているからではないかと思えるのである。
状況に追いすがろうとする時、人はすでに自由を失っている。追いすがれば、一瞬追いつくような気分にはなるが、やがて来る別の事象に結局は翻弄されることになるだろう。重要なのは、あらゆる事象に対してしぶとく生きのびること。そのためには、常に自由である必要があり、さらにそのためには自由よりももっと自由でなければならない、という知の剛力が要請されるのである。
松谷先生が、FORUMーICUで学生とともに目指しているものは、まさしくそういう自由であるのだと感じられる。彼が軽々に大学組織に関わりを持とうとしないのも、外部にいることによってのみ、硬直化しがちな大学という学びの場にむけて、自由の矢を放ち続けることができる。そんな決意のあらわれなのではないか、と私は憶測している。
ともあれ、この長たらしい文章でなにが言いたかったのかといえば、娘も私も、私の家族全員が、FORUMーICUと出会えてまことに幸運・幸福だった、という単純なことなのである。近いうちにまた「自由よりもっと自由な自由」について、松谷先生と語り合えることを願っている。その際には、ぜひ手練のマジックを披露してもらいたいものだ、とも思っている。